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若宮八幡宮

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若宮八幡宮は、天喜元年(1053)に御冷泉天皇が創立された神社で、その地が六条左女牛でしたので六条八幡または左女牛八幡とも呼ばれていました。

 仏説によりますと、釈迦が入滅された年から二千一年目を末世末法の世の第一年とされていますが、たとい世が末世末法に入っても国民が幸福であり、国家が繁栄し興隆するようにと念願されました御冷泉天皇が、都の中に八幡の神として若宮八幡宮をまつられたのであります。
 若宮という名も新宮の意味から呼びならわされたもので、石清水八幡宮の新興が都に渡られた時は、必らず若宮八幡宮の社頭に奉安されましたことでも、石清水八幡宮との深いつながりがうかがえるのであります。

 創立当時の造営に当たったのは八幡太郎義家の父、源頼義で、翌年の天喜二年(1054)から康平五年(1062)までの九年間、頼義、義家は東北の安倍頼時と子の貞任、宗任を征討する前九年の役に大功をたてました。

 若宮八幡宮の祭神は、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇でありますが、歴代天皇の御尊崇は申すまでもなく、源頼朝は建久元年(1190)と六年とに臨時の大祭を斎行し、弟の義経も祖先の頼義・義家にならって、社地の近くに居館を構え、常に崇敬の誠を捧げました。

 足利尊氏以下歴代将軍の幣帛・神馬・社領の奉献・奉納、社参が相次いで行なわれ、応仁の乱で炎上した社殿も、将軍の発起により諸国の武将が協力して造営されました。その後、織田信長が社殿新造のため奉加を洛中に下知しましたが、豊臣秀吉は天正十一年(1542)に社地を東山の御旅所に移し、更に十六年に大仏方広寺の北に移しました。秀吉の死後、慶長十年(1605)に照高院門跡道澄(近衛家出身)が、大仏の北の地が神域にふさわしくないとして現社地を寄せられ、徳川家康も七十三石余を寄進しました。

 承応三年(1654)に、後光明天皇は父君後水尾上皇の思召しを奉じて社殿を造営されました。現在の本殿であります。家康の遺志は十四代将軍家茂にまでうけつがれ、七十三石余と修理・神饌用の二十六石余とが年々寄進されました。
 明治十年(1877)には、本町十六丁目鎮座の塚本社から宮内省によって仲恭天皇の神霊が奉遷され、また昭和二十四年には陶器の町の五条坂の中心に当たりますので、陶祖神椎根津彦命も合わせまつられ、毎年八月の祭礼には全国からの陶器市で賑わいます。

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